2013年12月2日

スカラシップ2013上半期レポート 浜近拓也

王子小劇場から見る現代日本演劇の無中心的拡大
                          浜近拓也 

 今回王子小劇場のスカラシップをいただき、評価が安定している劇団でない劇団の公演を数多く見ることが出来た。普段私は年間70本ほどしか見ていないが、それではどうしても評価が安定している劇団に偏ってしまい、あまり批評や口コミなどには出てこない演劇公演にどういう傾向があるかを知ることは出来ない。このオフシーンの代表的劇場とも言える王子小劇場で多数の演劇を観た経験によって、逆説的に、世間的にも賑わっており、また個人的にも必要であると考えている日本の公共劇場の発展について実感を持って考えることが出来た。なにも私はこのエッセイで提言をしようという訳ではなく、実際の日本のオフシーンに触れて考えたことを綴っていきたい。
 正直言って、私はあまり優れていると思える作品を今回のスカラシップ期間に観ることが出来なかった。(シベリア少女鉄道を除いて。あの喜劇は素晴らしかった。)むしろこれほど自分の気に入らないような演劇を観続けたのは初めてだったので、非常に良い機会をいただいたと思う。私がこれらの作品を優れていると思わなかったのは、イデオロギーの無さに尽きる。私が見たほとんどの演劇は現実と距離を持って相対的な立場を取っているように感じた。マンハイムによれば、思想というのは全てある種のイデオロギーを持っているということだが、相対主義という思考の立脚点を自ら省みないまま、それが唯一絶対の立ち位置であるかのように振る舞っている作品があまりに多い。なぜここで行うか、なぜこの社会状況でこの作品をやるか、この省察が無いと確実に上演作品の強度が弱まる。自らの思考の立脚点すらままならない作品は弱いし、私は優れている作品だとは思えない。無論、この相対主義的な立場が悪いと言っているわけではない。自らの相対主義的な立場を一つのイデオロギーとして扱わずに、自分がどこの立場にも立たず傷つかない場所で演劇を行うということが問題なのだ。だが、今回の一連の観劇を経た限り(そして以前から自分がつまらないと感じた作品を省みると)そのような立場を取った作品があまりに多く、この状況の原因を彼ら自身に委ねることができるのと同時に、演劇環境に委ねることもできると感じた。彼らの立脚点が曖昧なのは、主流となる演劇創造形態がないため、自らの立場を選び取ることが出来ないのだ。換言すると、自らをオフシーンの立場として批判的に省みることが出来ていないということであろう。
 私は今現在ドイツのベルリンに留学しているため、ドイツの演劇事情と照らし合わせて考えていくと、ドイツのオフシーンでは主に鮮烈なイデオロギーと公共劇場では出来ないようなチープさをもって公演を重ねていく。象徴的に感じたのは、先日のandcompany&Co. という劇団の「Black Bismarck」という作品だ。この作品では、チープな方法を取って、ドイツ人の中に残るコロニアリスムをビスマルクの幻影によるものだとして、舞台上でビスマルクを破壊していくような作品であった。もちろんこの劇団はオフシーンの中ではある程度の評価を確立している劇団であるから、王子小劇場の一連の作品と単純に比較出来るものではない。しかし、日本で売れている小劇場の劇団をドイツの公共劇場の演出家たちに当てはめることが許されるなら、ドイツのオフシーンと王子小劇場がそれ程遠いものだとは言えないだろう。つまり、ドイツでは公共劇場で作る演劇が定着しているからこそ、完全なオルタナティブとしてオフシアターが活動できるのだ。翻って日本の現状をみると、他の先進国ではメインストリームであるはずの公共劇場が未だその位置を模索している状態で、それゆえオフシアターがオルタナティブとしての位置を確立出来ていない。そのため、自らがどの立場で演劇創造をしていくのかが曖昧になってしまうのではないだろうか。
もちろん、このようなドイツの公共劇場という主流があってオフシアターというオルタナティブがあるという状況を手放しで礼賛したいわけではない。というのも、無中心的に拡大していった日本の状況からも、数多くの素晴らしい演出家、劇作家が生まれたからである。しかし、そろそろ演劇を日本の文化として定着させても良いのではないかと思う。そのためにも、公共劇場という枠の中で、それを揺るがしていくような公共劇場の演劇と、全くオルタナティブの存在としてのオフシーンという枠組みを作るべく、日本は公共劇場を整備していくべきだし、そこに協力していきたいと感じた。
先日、She She Popという、日本の京都国際舞台芸術祭にも招致されている、これもドイツで人気のオフシーンの劇団の公演を観に行ったのだが、刺激的な舞台であるにも関わらず客席の半分ほどがサラリーマンや年配の方々で非常に驚いた。おそらくリアルタイムでハイナー・ミュラーなどを観ていた世代が新たな刺激を求めてオフシーンにまで観に来ているのだろう。日本の演劇も連綿と続く文化になってほしいと思った一コマであった。

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