2014年10月9日

スカラシップ2014上半期レポート 山田カイル

捏造される周縁性
山田カイル

 佐藤佐吉演劇祭の参加作品を観るために、王子と青梅線沿線の我が家を行き来しながら、私はほとんど、日本の演劇の中心、という事について思いを巡らせていた。
 芝居の勉強をするために大学に入った年、最初のセメスター、主任教授に「日本の演劇はほとんど世代論だから、そう覚悟しなさい」というような事を言われた。日本の演劇界には更新されるべき中心がないから、ほとんど世代性の議論でしか演劇史を語る事ができない。これは、日本という国で演劇をやるうえで、そして観るうえで、ひとまず前提として差し支えないと思う。
王子小劇場が “Oji Fringe Theatre”である事を思えば、佐藤佐吉演劇祭は、日本の小劇場を巡る中心と周縁の現状を見事にレイアウトしたフェスティバルであると言えるだろう。それは、中心の不在を受け入れる事で初めて成し遂げられる周縁性、と言い換える事ができる。

 私が観劇したのは主にフェスティバル前半の作品(犬と串、ワワフラミンゴ、NICE STALKER, 柿食う客、日本のラジオ)であった。その事自体の是非を論じるつもりではない事を事前に断ったうえで述べるならば、これらの作品を観て、私は一切、これらの作品を「新しい」と思わなかった。
 犬と串の『エロビアンナイト』のナンセンス、柿食う客の『へんてこレストラン』のリズム感覚、日本のラジオ『ツヤマジケン』のウェルメイドな構成、どれも新しくない。ただ、どれも磨きあげられている。
 (再び新しさの是非に関する議論でない事を断ったうえで)中でも新しく無さが際立っていたのは、NICE STALKERだろうか。ほとんど交錯するでもなく並行して提示される複数の筋、眼鏡の女性に対するあからさまなフェチズム、物語には何の関係もなく舞台上に居続ける熊の着ぐるみ(実は中身はヒロインだった、というギャグでロジックを与えられなくても、あの熊はきっと舞台上に存在し続ける事ができた)ひとしきり人物が登場した後、全体の人間関係をアップビートな音楽に乗せたオープニングダンス(?)によって提示するやり方など、言ってしまえば、全て見た事があり、新しくない。
 けれど私たちは、いつから、物語の筋に何の関係もない熊の着ぐるみが舞台上に居ても、違和感を訴えなくなったのだろう?私たちはいつから、オープニングダンス(?)が作中の人間関係の縮図だと理解できるようになったのだろう。
 そういった問いに対して「第三舞台とか、あそこら辺じゃないかな?」みたいな事は、簡単に言えてしまう。しかし反対に言えばそれ以上の事を言うのは、非常に困難なのではないか。
今我々が観ている日本の演劇に関して、ある手法のルーツを遡る事は、さほど難しくないだろう。日本の演劇の「手法の家系図」を仮定したときに、おそらく、日本の演劇界という大家族は、少数の点に向かって系譜が収斂していくような図を描かない。時代を遡るごとに点が消失と誕生を繰り返し、大量の平行線を描き、いきなり60年代で3つか4つの点にぶん、と収束するのではないか。これは「演劇に中心のない国」に特有の現象なのではないかと思うし、私の主たる関心はこの感覚にある。家系図を描く事は、この先の家族計画を考えるうえで、不可欠な事であるからだ。
 そのうえで、これから日本の演劇界に中心が生まれる事は、おそらくない。中心と周縁の描く遠心力で演劇というメディアを動かすことのできない環境で、演劇はどのように更新されていくべきなのか。私がしつこく「中心」という語を繰り返すのは、この問いに答える義務感のようなものを感じているからだ。
 佐藤佐吉演劇祭という観劇体験を経て「もはや何が新しくないかを確認する」という事は有効な手段であると、私は感じた。私たちは、何を受け入れる事ができるのか。物語と関係のない着ぐるみは受け入れる事ができる。人の出入りで演劇性が維持されるのに、人の出入りに理由が無いことも、受け入れる事ができる。そして、さらに、それが手法的にブラッシュアップされ得る事を確認する。そうして一つずつ、観劇体験として「これだけ上手にできる人たちが居るのだから、これはもう新しくない」という確認作業をすることで、次に何をすべきかの手がかりとなり得る。周縁を捏造する事で、仮の中心を想定する。そしてまた、新たな周縁性を確保する。そういう試みとして佐藤佐吉演劇祭を観ることで、小劇場の現在を定義する事ができるかもしれない。
 無論、これは「中心と周縁」という二項対立の中に一つの演劇祭を当てはめるという、強引な視点をよしとしてこそ言える事である。けれど、これだけ多種多様な作品が強引に一つのフェスティバルにまとめ上げられたのであるから、これくらいの事は言って良いだろうと思っている。

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